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未曾有の原発大災害によって、世の中にはっきりと衆知された事がある。原子力推進を担ってきた集団は、あまり信頼できない技術と能力しか持ち合わせておらず、しかも、誠意に欠ける人々によって構成されているという事実だ。事例をあげよう。
- 東電は、事故の初動を間違え、水素爆発を起こさせ、このような重大事故に至らせてしまった。この経緯は、過酷事故に対して、適切な対応能力を持ち合わせていない事を証明している。
- 東電、経産省、文科省は事故の重要データを速やかに公表せず、メルトダウンを公表せず、放射線被ばくから回避する方策も、SPEEDI予測によってわかっていながら公表しなかった。こうした隠蔽体質は諸外国の不信感を増大させており、国益を損なう行為である。適切なデータ公表と指示があれば、浴びなくてもよい相当量の被ばくを回避できたはずである。
多少笑ってしまうが、ようやく7月になって、原子力を推進してきた日本原子力学会でさえも、抗議の声明を発表し、メルトダウン情報の遅れに怒っている。もう少し早く行動を起こせば、より多くの共感が得られたと思うが。
- 311の事故発生以来、テレビに出演して原子炉健全性解説を流し続けた原子力関連研究者達は、過酷事故になんら対応が出来ない自らの学問レベルの程度を世の中にアピールしたようなものだ。あるいは、数億円に達するといわれる研究資金を提供してくれたという東電に気兼ねしていたのだとすれば、研究者失格である。
- 6月26日、玄海原発再稼働を目指して、経産省主催で行われた説明会のTV番組に、九州電力は、再開を支持するメールを番組宛に出すように子会社に依頼した。このやらせメール問題は、一つの例に過ぎず、311の事故を経た後でも、電力会社は、社会規範を平然と破る無法体質である事を証明している。
- 日本で原子力利用が始まって以来、手段をいとわぬ推進のやり口、情報隠し、事故隠しなど、原子力業界につきまとう悪しき体質は目を覆うばかりであった。それらは、原子力発足の時の悪しき決定過程に根ざす事を既に指摘した(第8.1節)。
7月30日朝日新聞朝刊トップは「保安院 やらせ指示」の大きな見出しで飾られた。これは、国主催の原子力関連シンポジウムで、原子力安全・保安院が電力会社に対して、推進側の参加者動員や発言指示をしたという内容である。筆者は第8.3節において、原子力安全・保安院が経産省の資源エネルギー庁内に設置されている事の法律上の矛盾を指摘している。原子力安全・保安院の官僚にとってみれば、「経済産業省設置法」内の「エネルギーの適正利用の推進」という大きな目的完遂の為に適正な業務をしたに過ぎないと思っている事だろう。このような組織体制を作った人々に責めの矛先を向けなければならない。
- 4月5日に公表された原子力委員会の「東北地方太平洋沖地震に伴う東京電力(株)福島第一、第二原子力発電所事故
と当面の対応について(見解)」の冒頭には次の文言がある。
平成23 年3 月11 日に発生した東北地方太平洋沖地震によりお亡くなりになられた方々の御冥福をお祈りいたしますとともに、被災された方々、そして福島第一、第二原子力発電所の事故に伴って、避難や屋内退避を余儀なくされている方々に衷心よりお見舞いを申し上げます。
原子力委員会は、この事故を我が国のみならず諸外国においても原子力の安全確保の取組に対する信頼を根本的に揺るがすものとして、極めて重く深刻に受け止めております。
これが、我が国の原子力推進のほとんど全権を持つ原子力委員会が、事故後、初めて国民に向けて発表したメッセージである。この人たちの視野には、事故が国民に与えた被害に、自分達が貢献しているとは全く映らないようだ。自分達への信頼が揺らぐとして深刻な事態と受け止めているだけである。日本語の常套表現として「重く深刻に受け止める」とは、不祥事を起こした会社が発するコメントであり、実質的には何の謝罪も対策もしないという姿勢の表明にすぎない。
- 安全に一層直接の権限を持つ原子力安全委員会の対応は更にひどい。事故直後の委員会は非公開となり、国民にむけての謝罪を含むメッセージなどは全くない。
- こうした現役組の対応に比べて、一部の原子力OB達の対応は、はるかに優れているという事になるのであろうか。第5.2節に、公表された「緊急建言」を全文引用したが、そこには次の文言があった。
はじめに、原子力の平和利用を先頭だって進めて来た者として、今回の事故を極めて遺憾に思うと同時に国民に深く陳謝いたします。
現役の原子力委員会と原子力安全委員会の委員達に比べて、彼らは過去の自分達の責任を自覚し、それ故に陳謝という言葉を使い、謝罪をしている。この対応の仕方は第一歩として評価できよう。
- TV番組の中で、原子力安全・保安院の寺坂院長は、「保安院自身の責任をどうとらえているか」と問われ、次のように答えている。
まあそういうその準備とかですね、体系の中で規制が充分でなかったという部分があるという事については、今回のような異常な危機・緊急事態にどのような対応ができるのかという点についてはもう一度しっかり考え直さなければいけないと思っております。
実質的に安全規制の全権を行使してきた原子力安全・保安院が、国民に向けて謝罪のメッセージを発したとは聞いていない。この官僚組織は、今後、(原子力利用の)規制の条文をいくらか変更する事が、事故に対する責任であると考えているのである。その後、再び重大事故が起これば、更に、「規制が充分でなかった」として「考え直す」というのであろうか。規制と推進の狭間で苦労を重ねざるを得ない官僚組織構造に由来するのであろうか。
7月17日のサンデーフロントラインで、過酷事故に対する米国の対応策を報じて、全電源喪失事故についての特集をした。日本の安全指針で「全電源喪失事故を考慮しなくてよい」と決めた事が、福島原発事故の深刻化と直接にリンクしている故に、この安全指針がどのようにして決められたかという問題は、非常に興味深い。本稿では、既に第3.2節で全電源喪失に係る安全指針を批判したが、指針にかかわった当事者のコメントが同番組内で報道されたので、ここで取り上げる。
まず、今から20年以上前に実行された米国の全電源喪失事故対応は次のようなものであったという。
- 1979年のスリーマイル島原子炉(TMI)事故の経験を踏まえて、アメリカでは全原子力発電所に全電源喪失対策を連邦規則で要求した。1988年のことである。
- この規制により、全米の原子力発電所が、全電源喪失対策のために投じた費用はおよそ250億円(研究と訓練、非常用ディーゼル発電機、バッテリー購入・改善、ガスタービン導入など)であった。
- TMI事故の指揮をした(当時)NRC原子炉規制部長ハロルド・デントン氏の全電源喪失に対する見解は次の意見である。
「全電源喪失が除外されることはあってはならない。むしろ被害を抑えるための議論が必要で、無視はありえない。」
- 我々もTMI事故が起きる前までは、事故が起きるとすら思っていませんでした。たとえ可能性が極めて低かったとしても、検討しなければなりません。それはもう起こりませんなんていうのは非常に極端な考え方ですね。それは起こりうるんですから。
アメリカで全電源喪失対策が指示された2年後の平成2年(1990年)に、第3.2節で指摘したように、日本の原子力安全委員会は、福島原発事故の直接の原因となった驚くべき安全設計の指針を決定している[20]。
指針27.電源喪失に対する設計上の考慮
長期間にわたる全交流動力電源喪失は、送電線の復旧又は非常用交流電源設備の修復が期待できるので考慮する必要はない。
非常用交流電源設備の信頼度が、系統構成又は運用(常に稼働状態にしておくことなど)により、十分高い場合においては、設計上全交流動力電源喪失を想定しなくてもよい。
当時、日本と米国は二カ国間の原子力協定を結んで、事故等の情報の共有をしていた。米国がTMI事故を経て、全電源喪失事故対策をした事は、日本側にも伝わっていたはずなので、日本はアメリカの方針に賛同しなかったという事である。「長期間にわたる全交流動力電源喪失は考慮する必要はない。」と定めた安全指針のまえがきにはTMI事故を考慮したとの文言があるのに、米国と日本の対応は正反対であった。20年後、どちらが適切な判断をしたのかは、大事故により証明された。
安全指針の「まえがき」部分の記述に、この安全指針の背後に潜む危うさがうかがえる記述がある。
まえがき
本指針は、発電用軽水型原子炉(以下「軽水炉」という。)の設置許可申請(変更許可申請を含む。以下同じ。)に係る安全審査において、安全性確保の観点から設計の妥当性について判断する際の基礎を示すことを目的として定めたものである。
軽水炉の設置許可申請に係る安全審査において用いられる安全設計審査指針は、最初は昭和45年4月に、当時の原子力委員会が定めたものであり、その後昭和52年6月に、同じく当時の原子力委員会が、これを全面的に見直して改訂を行った。昭和52年の安全設計審査指針の改訂以来、10年以上が経過し、この間軽水炉の技術の改良及び進歩には著しいものがあった。また、この間に、米国で発生したTMI事故等、国内外に生じた様々な事象から得られた教訓も含めて、軽水炉に関する経験の蓄積も大きいものがあった。これらを踏まえ、従来の指針について全面的見直しを行い、指針の内容の一層の明確化及び体系化を図ったものである。
ここには、TMI事故等の教訓を考慮した事が述べられている。同時に「軽水炉に関する経験の蓄積も大きいものがあった」と大きな自信を持つに至った事を宣言している。原子力関係者が持つに至った自信について、筆者の疑問を提示しよう。
日本の初期の原子炉は米国の技術を直輸入して建設された。従って、この頃の原子力界をリードする方々は、先進国米国の作った原子炉を日本に輸入するという膨大な作業に従事した。それはそれで必要なステップであり、重要な仕事であった。ここで問題にするのは、よそで作ったものをデッドコピーして製作したという実績だけで、真の技術は育つのかどうかである。
筆者の答は「育たない」あるいは「育ちにくい」である。およそ物作りでは、新しい物をああだこうだと試行錯誤を繰り返しながら創造する過程において、技術の蓄積が生まれるものと思う。この事は、惑星探査機「はやぶさ」と福島原発の事故の進展過程を比べてみればわかりやすい。「はやぶさ」に故障が生じた事は技術の未熟さを示すともいえるが、その故障をいろいろとやり繰りしてなんとか地球生還まで漕ぎ着けた技術は、「はやぶさ」を自分達で設計し、製作して、隅から隅まで知り尽くしているからこそ、達成されたと推察する。一方、原発事故の対応はどうであったか。図面をコピーして作った原発の諸機器に対しては、いざという時に手も足も出ない事が明らかになった。機器の重要部分が知的ブラックボックスなのに、適切な技術的対応がとれるはずもなく、極端な運転条件に陥った時、具体的にどうこうするという技術的対策が生まれるだけの蓄積は残念ながらなかった。おそらく、発足当時の日本原子力研究所の所員達は、米国からの技術導入の仕事に相当の労力を費やしたのではあるまいか。読破すべき文献資料は山のようにあったに相違ない。そのような仕事環境では、知識は蓄積されていくだろうが、いざという時に役に立つ技術が育つとは限らない。これが、実力を伴う技術力と単なる知識の集積としての見かけの技術力の差であろう。
こうした「研究作業」により生まれた、科学者でもなく、技術者でもない輸入技術官僚達が、自分達に技術があると錯覚して、全権を握って原子力推進体制を構築した。これが、原子力関連の決定事項(指針や想定など)に物理的(合理的)に考えて異様な文言が出現する理由の一つであろう。
以上を踏まえて、番組で報道された指針に関係する人々の文言を検討しよう。登場する人物は石川廸夫、松浦祥次郎、村主進の三氏である。日本原子力研究所の要職を歴任された方々である。
初めは、安全指針起草ワーキンググループ主査(88年当時)の石川廸夫氏へのインタビュー。
- (Q)指針を検討していた際に異論はでなかったのか?
それは出ないと思いますね。
- (Q)なんでこういう文書が指針にはいったのか?
ディーゼルエンジンですよね。これの信頼度が、アメリカ製は10回に1回(起動に)失敗するとかいうんで、少なくとも2台、場合によっては3台もたなくてはいけないという議論の方が先行しておりましたね。
(ナレーション:石川氏は日本の電源はアメリカより信頼性が高いため、長時間の全電源喪失は起こり得ないと考えたという)
- (Q)アメリカの全電源対策というレポートが出された中で、日本がそれを取り入れなかったという事は、日本は聞く耳を持たなかった?
そういう自信がありますしね、データも非常にいいからね、やる事ないじゃないかと、一般的に思いがちだったでしょうね。反省を迫られるとあったかもしれんなとは思うな(笑い)。日本の物はいいからねという感じは。
- 今回の事故で、電源がですね、10日間くらい来なかったかな。それからいうと確かにこの指針は失敗でしたね。日本の原子力発電所、あるいは日本の技術、そういったものに皆さんが極めて過信というか自信を持っていた事は事実ですしね、それが気持ちの緩みになっていたことはないとはいいきれないと思いますね。
日本原子力研究所は研究所であったが、大学研究室の雰囲気とは大分違うと聞く。大学には大学の自治があり、学問の自由という大きな枠があるが、そうしたものが日本原子力研究所にはない。特殊法人として発足したので、当初は財界あるいは業界出身の理事長、その後は通産省系官僚の天下り理事長が多いという事が日本原子力研究所の「研究作業」に反映されるようだ。研究においても自由闊達という雰囲気ではなく、ノーベル賞の益川先生がどこかで話されていたような大学院生と教授が口角泡を飛ばして議論する風景の類は見られず、逆に、上意下達の雰囲気に満ちた静かな議論の場であると聞く。
従って、このインタビューで、石川氏が「異論は出ないと思いますね」と断言した裏には、硬直した「研究作業」という背景がうかがわれる。原発事故後の現在から判断しても、全電源喪失対策を巨費を投じて行った米国の対応状況から判断しても、誤りであったと評価せざるを得ない指針中の最重要な文言について、何らの異論も出ない会議とは、実に異様ではないか。
次に、ディーゼル発電機が止まるのは、ディーゼル自体の不具合のみが原因ではない点に注意しよう。ディーゼル発電機を起動して運転するために必要な全ての設備が満たされていなければ、ディーゼルは運転できない。実際、福島では、ディーゼル用燃料タンクは津波により流失し、ディーゼル本体は冠水によって絶縁不良となった。安全を考慮する時に必要な広い視野が欠如している様子が、石川氏の談話の中によみとれよう。逆に、単品の性能の良さによって、安全を代弁させるとは、これも異様な議論の風景であろう。
石川氏は「皆さんが技術に自信を持っていた」と言うが、今から20年ほど前に2回行われた「朝まで生テレビ」の「原発特集」において、揺るぎない自信を持って原発の安全性を主張していたパネリストは石川氏だったと記憶する。氏が決めた指針が直接の契機になって、数万人の難民が生まれている。氏の最近のいろいろな発言から判断して、土地を追われた人々、そして今後相当量の被ばくを受け続ける人々の姿は、氏の視界に入っていないようにみえる。
原子力安全委員長を務めた松浦祥二郎氏は、全電源喪失を確率問題としてとらえており、次のようにいう。
この世の中には人間がとても想定出来ない事が起こりうる可能性があると思います。隕石は想定できないわけではないですけれども非常に確率は少ないわけですよね。それに全部対応しようと思いますとすごい費用がかかる。それが拮抗して採用されるかされないかという事になると思います。
物理学者の小谷正雄先生は次のような伝説を残していると聞く。
先生が数理物理学の難問をその場ですらすらと解く姿を見て、多くの方が驚嘆し、賞賛されている。ある時、難問を黒板を使って長々と解いた最後の答をみて、先生は、この結果は正しいが物理的に考えて符号が反対ですから、最後にマイナスをいれましょうと言って、マイナス符号を書き加えたと。
物の理というのは、符号によって結果が反対になる。その符号は、物理的な洞察によって推定できる場合が多い。先生は問題を解く場合に、数式を追うと同時に、物理的な洞察も重要であり、常に働かせておくべきだと教えているのだと思う。
福島の場合、地震はマグニチュード6.5(第2.4.2節参照)、津波は5〜6m(第3.4節参照)が想定されていたという。安全のクラス分けでは、Sクラスの非常用ディーゼル発電機はBクラス建屋地下にあった(第2.4.2節、第6.4節参照)。こうした誰にもわかる過小評価の実体を容認する考え方に従って計算された発生頻度数百万年に1回を後生大事にする考え方は異様である。計算結果を聞いて、第一に考える事は、その数字がどの程度信頼できるかを物理的に検討する事であろう。仮にマグニチュード6.5が条件として入っていれば、それはこれまでの歴史上の経験を適切に反映していないという判断を下さなければならず、もし入力条件に組み込まれていなければ、その計算結果の根拠が揺らぐ点を指摘しなければならない。単純に考えても、数百万年後に日本列島が今のままの姿であるとは誰も想像できないし、鉄とコンクリートの寿命は百年あるかどうかさえ危惧されている。松浦氏は今でもこのような天文学的確率の正しさとそれに従う事の正しさを両方とも信奉しておられるようだから、福島の大事故は、大きな隕石が落ちてきたのと同じ事で、全く運が悪かったと思っているのであろう。しかしながら、50年来の原子力推進の結果が、福島県とその周辺に有史以来の災害をもたらした事は消しようのない事実であり、自らも認められているようにこの災悪に責任があるという評価も歴史が続く限り残るであろう。
原子炉安全基準作業部会長(当時)村主進氏は、安全指針を決めた責任者ともいえよう。氏は次のように語る。
(Q)現時点でこの指針のあり方には問題があったとお考えになりますか、なかったと考えられますか?
現時点で指針そのものがまずいとは今思っていません。ここだけを読まれている人が、それはたしかここだけを読めばおかしいと思うでしょう。安全設備というのは多ければ多いほどいいですよね。だけどね、多ければ多いほど、今度は運転員のミス、機器の故障が増えるわけです。十分で安全な設備がなければいけない。だけど十分以上であってはまずいですよね。
リスク評価をやって、その当時の安全設備で大体炉心が溶融(メルトダウン)する頻度は100万年に1回というような結論が出ているわけですね。
なるほど、この部分だけを読んではいけないとの反論である。確かに、上に引用した指針は、実は指針そのものではなく、指針を解説した部分の引用なのである。では指針の解説とは何か。「解説」の目的は次のように記されている。
解説
本指針を適用するに当たって、運用上の注意を必要とし、又は指針そのものの意義、解釈をより明確にしておく必要があると考えられる事項について、次にその解釈を掲げることとした。
指針の本文はわかりにくい場合があるので、「解釈をより明確にする」目的で、「解説」部分は書かれているのである。解説の目的を理解した上で、本文を引用して、解説部分と比較検討しよう。
(本文)
指針27.電源喪失に対する設計上の考慮
原子炉施設は、短時間の全交流動力電源喪失に対して、原子炉を安全に停止し、かつ、停止後の冷却を確保できる設計であること。
(解説)
指針27.電源喪失に対する設計上の考慮
長期間にわたる全交流動力電源喪失は、送電線の復旧又は非常用交流電源設備の修復が期待できるので考慮する必要はない。
非常用交流電源設備の信頼度が、系統構成又は運用(常に稼働状態にしておくことなど)により、十分高い場合においては、設計上全交流動力電源喪失を想定しなくてもよい。
本文には、「短時間の全交流動力電源喪失に対して冷却を確保できる設計」と記されている。短時間の定義が記されていないので問題は残るが、要するに、冷却系を確保しなさいと読める。この規則だけならば、電力会社は、全交流動力電源喪失に対して冷却設備を用意しなければならない。「短時間」の長さは運用によってどうにも決められてしまいそうなので、これは大変な規則であると電力会社は理解し、強硬な異論を唱えるであろう。そこで、電力会社の不安を解消して、要望に答えるように「解釈をより明確にする」ために、解説部分に
長期間にわたる全交流動力電源喪失は、考慮する必要はない。
と、否定形で記したのである。そして、電力会社の「設計上でさえも考慮しなくてよい」とする理由説明用の資料として、わざわざ次のように補足した。
非常用交流電源設備の信頼度が、系統構成又は運用(常に稼働状態にしておくことなど)により、十分高い場合においては、設計上全交流動力電源喪失を想定しなくてもよい。
この文面ならば、電力会社は大喜びであろう。信頼度の評価は単なる図面でもよいし、あるいは運用実績でもよいと懇切に記されているので、電力会社は、この規則を簡単にクリアできる。
こうして、解説のまえがき、指針本文、解説部分とを検討すれば、電力会社にとって優先すべき文言は「解説部分」であるという構成で記述されている事がわかる。そしてそこには「必要はない」「想定しなくてもよい」と否定形で断定されているのである。
村主氏の反論が本文部分をあわせて読めという事であれば、「自らの作文の論理構成を否定する詭弁ですね」と反論しよう。あるいは、もっと全体の安全思想あるいは哲学を考慮せよという事を意味するのであれば、この安全指針には後世の評価に耐えるものは見当たらないと反論しよう。それは、安全に対する氏の言葉の中にも見いだされる。
安全設備というのは多ければ多いほどいいですよね。だけどね、多ければ多いほど、今度は運転員のミス、機器の故障が増えるわけです。十分で安全な設備がなければいけない。だけど十分以上であってはまずいですよね。
氏の安全思考過程の危うさは、この場合の対象事象に置き換えて、言い直せば容易に理解できよう。
全交流動力電源喪失を考慮して設備が多くなると、運転員ミスや機器の故障が増えるのがまずいので、そうした設備は必要ありません。
村主氏は、心底から原発の安全性を信じているのだろう。それは
リスク評価をやって、その当時の安全設備で大体炉心が溶融(メルトダウン)する頻度は100万年に1回というような結論が出ているわけですね。
という発言から推察される。
第3.2節で引用したように、冷却系を喪失すると、2〜3時間の内に炉心損傷が始まり、5〜6時間の間に、過酷な運命が決まってしまうのである。この指針を決めた1990年には、日本においても、既に炉心損傷事故解析は精力的行われており、分厚い報告書(内容に問題はある)が1984年に出されていた(第6.4節参照)。従って、「全交流動力電源喪失」が生じ、更に「非常用交流電源設備」に不具合が生じた時に、極めて短時間の内に原発がメルトダウンする事は、安全審査をした委員全員が熟知していたはずである。その最後の砦ともいうべき「非常用交流電源設備」は「系統構成」により信頼度が高ければよろしいという指針である。要するに、構成図面上できちんとしていればよろしいという指針であり、現実に設備がどのようになっているかは指針上では問題にしていない。電力会社にとってこんなに有難い指針はないというくらい、事業者への気配りに満ちている。全電源喪失からメルトダウンまでのスピードの早さを真面目に考えれば、到底このような悠長な指針は書けないと筆者は思う。大容量の重電関係の大事故の場合、切り替えシステムが完備している場合をのぞき、その復旧時間は、分ではなく時間、あるいは日単位になってしまう場合もあるのではないか。その意味からしても、ここに書いてある文言は、絶対に壊れないという誤った思い込みに基づく安易な作文にすぎない。
一般的に言えば、科学者、あるいは技術者と呼ぶに値する人々は、真理とか事実とかに対して誠実に接すると思われる。真理を尊重しない科学者は(定義上)あり得ないし、技術者は、真理に反すれば、すぐに失敗あるいは故障というしっぺ返しをくらう。ここに登場した3人の当事者達は、原子力発電所が崩壊した事、そして自分達が構築した原子力機器が崩壊した理由をいまだに正しく認識していないように思われる。日本の原発が危ない所以は、例えば全交流動力電源喪失に対処する指針に、アメリカとは正反対の無視という対処の仕方を、何の疑念もなく決めてしまう、そのような人々によって推進されていたという事実に由来する。しかも、事故後になっても、当時の正当性を主張し、他人事のように全体の雰囲気に責任を押し付ける。そういう方々がリードする業界だから信用するに値しないのである。科学的知識を輸入したが、科学的精神あるいは考え方を身につけていないという事であろうか。安全哲学がないと難しく表現する人もいるようだ。
以上、一言を以て言えば、徳義の面でも、能力の面においても、信頼に値しない人々が何故か狂奔して推進する原子力発電に、我々の将来を委ねる事ができるでしょうかという問題が提示されていると考えられる。
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Kozan
平成23年8月1日