本震 発生日 869年7月9日(貞観11年5月26日)
規模 マグニチュード (M)8.3 - 8.6
被害 死傷者数 死者約1000人
貞観地震(じょうがんじしん)は、貞観11年5月26日(ユリウス暦869年7月9日[1]、グレゴリオ暦換算7月13日)に陸奥国東方の海底を震源として発生した巨大地震。地震の規模は少なくともM8.3以上であったと推定されている。現在の地名では、東北地方の東の三陸沖と呼ばれる海域にある太平洋の海底が震源とされ、地震に伴う津波の被害も甚大であったことが知られている。約数十 - 百年ごとに起こる三陸沖地震に含まれるという考えから貞観三陸地震、上述の津波被害の観点から貞観津波ともいわれる。千年以上前に起こった貞観地震は、震源の場所、その規模、そして津波被害の分析などから、現代の日本でも生じうる怖い地震のタイプとして、研究されていた。その研究成果が2010年に公表された(行谷・佐竹・山本、「貞観津波の数値シミュレーション」)。
2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震との類似点が指摘されている。
「陸奥の国で大地震が起きた。稲妻が昼のように光り、人びとは立っていることができなかった。あるものは家の下敷きとなり、あるものは地割れに呑みこまれた。驚いた牛や馬があばれて走り出し、城郭、倉、門櫓や墻壁が無数に崩れた。雷鳴のような海鳴りが聞こえて海嘯が押し寄せ、たちまち海から遠くにあった城下にまで達した。見渡すかぎり水となり、野原も道も大海原となった。舟で逃げたり山に避難することができずに千人ほどが溺れ死に、あとにはなにも無くなった」と被害の惨状が『日本三代実録』に記述されている。陸奥国城下は多賀城と推測されており、多賀城市の市川橋遺跡からは濁流で道路が破壊された痕跡も発見されているが、はっきり明記されているわけではないので異説もある。
記録通り仙台平野に津波が溯上した痕跡があるが、この痕跡はこの地震以外にも複数存在することが分かっている。その痕跡から判断した場合、超巨大地震(による津波により東北地方の太平洋側が襲われ、その威力で仙台平野が水没するという現象が約1000年間隔で繰り返されているとされる。
津波堆積物調査から岩手県沖 - 福島県沖、または茨城県沖まで震源域が及んだ連動型超巨大地震の可能性が指摘されている。
なお、この地震の5年前の貞観6年(864年)に富士山の貞観大噴火が起きている。
石巻平野,仙台平野,および請戸地区における貞観津波の堆積物の分布と,6 種類のプレート境界型地震の断層モデルによる津波浸水計算結果とを比較した. 検討を行った断層モデルは, 断層の長さ100 km,幅100 km,すべり量10 m,上端深さ31 km( モデル8,Mw8.3) と, 断層の長さ200 km, 幅100 km,すべり量7 m,上端深さ15 km(モデル10,Mw8.4)の他,モデル8 を南側に移動させたモデル(モデル12),浅部に移動させたモデル(モデル13 および14),モデル10 を深部に移動させたモデル(モデル11)である.
この結果,断層の長さが200 km のモデル(モデル10 および11)では,断層上端深さによらず,全地域で津波堆積物の分布を良く再現することができた.いっぽう,断層の長さが100 km のモデル(モデル8)では,計算浸水域が請戸地区における津波堆積物の位置まで到達しなかった.また,モデル8 の位置を南側や浅部へずらしたモデルでは,請戸地区の津波堆積物は説明できるが石巻・仙台平野の津波堆積物を説明できないなど,全地域の津波堆積物の位置まで浸水する結果は得られなかった.
本研究では石巻平野から請戸地区における津波堆積物を用いて貞観地震の断層モデルを検討したが,断層の南北の拡がり(長さ)などをさらに検討するために,今後,石巻平野よりも北の三陸海岸沿岸や,あるいは請戸地区よりも南の福島県,茨城県沿岸における津波堆積物の調査が必要である.